唯一、会いたい兄弟達
鞭全盛期の80年代、九州の田舎で暮らしていた。父の仕事は数年おきに転勤があり、街中から阿蘇山の麓ののどかな街で小学生の半分ほどを過ごす。
この頃は持病で通院しないといけないけど、母は正規開拓を始めたり妹達は小さいし、私を病院へ連れていくと夕方から夜までかかるので、小学校3年から4年にかけ私は1人で電車に乗って少し遠くの病院へ通っていた。
会衆には、国立病院で療養している車椅子の兄弟が2人おられた。2人は本当の兄弟だ。
母と妹達と時々、その病院へ遊びに行ったり、そこの書籍研究の群れ(兄弟達2人の群れ)に参加したりした。病院の敷地の奥にはハンセン病の療養所もある。兄弟達のベッドへ行くと書籍がたくさんで、いつも手紙伝道をしていた。
私が週に2,3回、夕方に電車で通院するときに療養所の前にある駅を通る。兄弟は時々、その駅のホームで電車に乗っている私に会うために。ただそのためだけに待っていてくれた。電動の車椅子で、病棟から駅のホームまで、今思うと時間がとてもかかったと思う。
兄弟を見つけ電車の中から手を振る私。
兄弟はニコッと笑い手のひらの先を、力を込めて小さくひらひらふってくれた。
兄弟達とは父よりも母よりも会話をした。
「兄弟、楽園に行ってなにする?病気が良くなるね」なんて話した。兄弟達は親よりも私を褒めてくれた。決して幼い子供扱いするのではなく、かといって特権を求めるように勧めるわけでもなく、いつも対等に見てくれた。私という人間の人権を認識してくれていた。
母は毒親だし、どうしようもない偽善者JWだけど。懲らしめのムチで毎日何十回と叩きまくった、洗脳された親だったけど、病気や障がいについて正しい知識を教えてくれた。そのおかげで兄弟達だけでなく療養所にいた歳の近い友達もできた。
私のJW時代の中で唯一の友達だった。
その頃は楽園を本気で信じていたから、その唯一の友達が若くして亡くなったと聞いても「楽園で病気が治って会えるね」という気持ちだった。
楽園は子供の私にとっても癒しだったのかもしれない。しかし、現実は療養所で兄弟達は伝道もしていたけれど研究生はほぼいなかった。子供心に「みんな病気が治るのに、なぜ信じないのだろう」と不思議だった。
いまこうして思い出すと、兄弟達にだけは会いたいなと思う。私が今まで見てきた世の中や風景や、くだらないたわいのない会話もしたい。ご存命なら80代だろうか…